「④殺人を正当化する「タントラ・ヴァジラヤーナ」の教義を綱領としている」についても、極めて無理のある認定といわざるを得ません。
 実は、過去4回の観察処分取消訴訟において、この「殺人を正当化する教義」に関する公調・公安審の主張が、裁判所に認められたことは一度もありません。
 2001年の東京地裁判決では、

「確かに、教団の教義が原告主張のように改められたことは、前記認定のとおりであり、このことが表向きだけのことで実質的には従来どおりの教義が行われていると認めるに足りる証拠はないから、教団に法5条1項4号該当性(引用者注:上記④の要件を指す)があるというのには疑問がある。」

として公調・公安審の主張は退けられています。その後の各判決(2004年、2012年、2017年)でも、Alephの教義について新たな判断は示されていません。
 裁判所のこのような姿勢の背景には、破壊活動防止法に基づく解散請求の弁明手続きで、麻原尊師が述べた次のような発言があります。
 
 

「オウム真理教には、先程述べましたとおり、タントラ・ヴァジラヤーナとして六ヨーガ、あるいはカーラチァクラ・タントラを含めて瞑想法がございます。今、わたしどもは起訴勾留の身でございますけれども、わたしの説いた内容が一般の信徒に対して誤解を招くとするならば、それはやはり封印しなければならないと考えております。」

(1996.5.16 東京拘置所)

 
 
 このように、麻原尊師はタントラ・ヴァジラヤーナの教義の中で危険とされる教え(上記の文脈では、いわゆる「五仏の法則」を指す)を封印することを表明し、教団側もこの方針に従った措置を取ったのです。

 さらにいえば、そもそも宗教上の「教義」は、組織運営上の「綱領」と同列に扱い得るものなのでしょうか。つまり、この「④殺人を正当化する教義を綱領としている」の要件については、何をもって「綱領」とするのか、という根本的な問題があるのです。
 「綱領」とは、「団体の立場・目的・計画・方針または運動の順序・規範などを要約して列挙したもの」(広辞苑)をいいます。Alephにおいて「団体の目的・方針・規範等を要約して列挙したもの」といえば、宗教理念・運営規則・コンプライアンス規程の3つがこれに当たると考えられます。かたや、Alephにおける「教義」は、大小2000からなる麻原尊師の膨大な説法群から成り立っており、要約も列挙もされていませんし、上述のとおり、中には封印されたものもあり、まったく「綱領」としての体を為していません。
 観察処分では、Alephの主要な経典や教本ではなく、退会者らの証言などに依拠して、公安調査庁の職員の手によって「オウム真理教の教義」なるものが要約されて提示されています。そして、現実には誰の行動規範にもなっていない、この「教義」が、団体の「綱領」とされてしまっているのです。Alephが掲げる宗教上の教義と、公安調査庁が独自に要約して綱領化した「オウム真理教の教義」との間に大きなギャップが存在するゆえんです。
 
 もし、あえて教義を引き合いに出すとすれば、不殺生をはじめとする五つの戒めを持すること、すなわち、仏教のいわゆる「五戒」(不殺生戒、不偸盗戒、不邪淫戒、不妄語戒、不飲酒戒)の教えが、すべてのAleph会員にとっての宗教上の生活規範として、要約され列挙されたものに相当するでしょう。
 つまり、公安調査庁が独自に要約した「オウム真理教の教義」は、殺人を暗示的に勧める団体綱領であるとされていますが、Alephでは、逆に、不殺生を明示的に勧める教えを重要な生活規範としています。したがって、Alephは、世俗における法令遵守及び宗教上の持戒の理念に基づき、明確に殺人等の犯罪行為を禁止している綱領を有しているといえるのです。【続く】