明日、つまり2014年1月16日から始まる平田信被告の裁判員裁判を前に、「奪還」という物騒な言葉があちこちで飛び交っています。証人としての出廷が予定されている3人の死刑囚の奪還、ということだそうです。
報道によれば、死刑囚の証人尋問当日は、警察官と刑務官をそれぞれ数百人ずつ動員し、死刑囚の収容先の東京拘置所から移送先の東京地裁までの沿道と裁判所周辺を警備させるとのことです。法廷でも、死刑囚の周囲に遮蔽板を立てて傍聴席から見えなくするほか、「奪還」防止のために傍聴席前に防弾ガラスを設置するというからいかにも物々しい。
もともと裁判所の入口では、手荷物のエックス線検査を受け、金属探知器ゲートをくぐらなければならないわけですし、法廷に入る時にもさらに念入りに全身を検査され、メモ等以外の所持品は係員に預けさせられるのです。
一体どのような「奪還」計画が想定されているのでしょう。想像を絶します。
それ以前に、誰が、何処へ、何のために、「奪還」するというのか。――これがそもそもよくわからないのです。
実は、十数年前にも今回と同じような大騒ぎがありました。
95年、公安調査庁がオウム真理教に対して行なった、破防法(破壊活動防止法)に基づく解散請求手続において、当時、教団の代表者であった麻原教祖から意見聴取するための弁明手続が東京拘置所で行なわれたときのことです。
この時の騒ぎは今回以上だったかもしれません。
しかし、結局、誰も奪還することもされることもなく、大騒ぎは空騒ぎに終わりました。
今回、奇妙な既視感を覚えるのはそのためでしょう。